どれだけ時間がたっただろうか。私はこの男の話をじっと聞いていた。あっけにとられていた私に男は言ってくる。
 「まぁ全部作り話ですよ。どうしました?その顔。まさか本気にされましたか?本気にしないで下さいといったでしょう。こんなバカな話があるわけないでしょう。」
 男は残っていたバーボンを飲み干す。仕草からして、酔っているわけではなさそうだ。いつの間にか店内の演奏は終わっていた。終わったことにも気付かないとは。やはり私はこういう音楽に興味は持てないのだろうか。
 「長々とくだらない話を聞いてくださってありがとうございました。では、自分はそろそろ行きます。」
 男は立ち上がる。
 「次は私の演奏なんで、よかったら聞いて行ってください。こうみえてもピアノは得意なんですよ。」
 時計を見ると午後九時を回っていた。人が増えている。やはりこういうところのピークは今からなのだろう。
 男はピアノに向かう。ここからだとよく見える。鍵盤の上にはSteinwayの文字がある。

 男の弾くピアノを私は聞いている。さっきの男の話は本当なのだろう。流れてくるのはその馬鹿な男の奏でるメロディである。
 私はこういう音楽をどう聞いていいのか今までわからなかった。聴いていても退屈だったのだ。ただのBGMとして聞き流していた。
 しかしこの男の胸にこみ上げてくる感情はなんだろうか。耳から頭に入り込んでくるこのメロディは、まるでこの男の一生を聴いている、いや、見ているように感じた。
 男は楽しそうだ。この執行猶予つきの男は、ピアノを弾ける、それだけで生きていくことができるのだろう。

 男の一時間半にも及ぶ演奏が終わった。私は拍手をしていた。私の拍手を火種とし、その場にいたもの皆拍手をしていた。私が来店した時より人が増えたとはいえ、そんなに大人数いるわけでもなかったので、拍手「喝采」というわけにはいかなかったが、少なくとも私は心の底からの称賛を拍手に乗せていた。
 男はその場にいたものに一礼し、私の所に来てこう言う。
 「それでは、またここで。」
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