この男の言っていることは本当なのであろうか。男は熱心に話を続ける。さっき「スタインウェイ、あなたは弾いたことありますか?」と話を振られたときは焦った。弾いたことあるといってしまった。どんどん私はすごい人になっていってしまっている。もちろん弾いたことなどない。名前も初めて聞いた。
 私は何杯目かのジントニックを飲みながら話を聞く。段々思考が働くなってしまっている。
 男は話を続ける。

 午前三時、男は先刻の楽器店に忍び込む。そう難しいことではなかった。男は目的のピアノまで一直線だ。
 目の前にあるピアノを見て、男は涙を流す。本当なら男は、ステージの上でこのピアノを弾き、称賛を浴びるはずだったのだ。歯車はどこで狂ってしまったのだろう。どうして、忍び込むような真似をしてまでしないとこのピアノにたどり着けないのだろう。
 男はじっとしていることができなかった。気が付くとピアノの前に腰かけてた。気が付くと鍵盤蓋をあけていた。気が付くと男は鍵盤に指を置いていた。おもむろに鳴る午前三時のニ長調。 

 誰かこのピアノを聴いてくれ。とっておきの、自慢のクラシックバラードだ。誰でもいい、だれか自分のピアノを聴いてくれ。自分のピアノを感じてくれ。 
 男の奏でる演奏は美しい日々の調べであった。しかし、その美しいメロディに乗せた感情は憂いである。帰らぬ日々の後悔である。
 このピアノに出会っていれば、自分の人生は変わっていただろうか。歓声を受けることのできるステージの上に立っていることができただろうか。
 しかし、男のいるステージはかけ離れていた。生きるために盗むだけ。むしろ、盗むために生きているといっても過言ではない人生である。拍手一つさえ貰える筈のないステージであった。

 男の演奏を聴く者はどこにもいなかった。拍手一つない静寂だけが存在した。
 しかし男は弾き続けた。どうせのたれ死ぬだけのくそったれの人生なのだ。このまま、弾きながら死んでしまいたいとさえ考えていた。
 鍵盤をたたく男の指は止まらない。時は進み、朝になっても止まらない。気づくと男は羽交い絞めにされていた。拍手はやはりもらえなかった。
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